神は我々と共におられる

マタイ1:18-25

「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ2.23)

天使が夢でヨセフに告げた名前はイエスであって、インマヌエルではない。預言によればメシアの名はインマヌエルでなければならない。
天使はヨセフに「この子は自分の民を罪から救うからである」と告げている。マタイが理解する罪とは神からの逃亡である。アダムのように身を隠すことである。(創3.8)そして救いとはその逃亡する人に神がなお共に在ろうとする恵みなのだ。最早神は自身が人となり我々と共におられる。マタイはインマニエルを名前ではなくイエスによってもたらされる救いの姿に解釈した
ヨセフは婚約の解消を考えていた。それは人間ヨセフの正しさであった。しかしインマヌエルはその正しさを拒否する。むしろその罪の女マリアを迎え入れ、共に在る新しい救いの道へと誘う。律法によれば確実に罪人であるマリアによって、否、このマリアとヨセフが共にあって誕生したイエスであるからこそインマヌエルに相応しい。更に系図に表された彼女たちの名によって「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」とする天使の言葉にアーメンを返すことが出来る。
故にインマヌエルの救いは、切り捨てて問題を解決するという選択をしない。神が我々と共に在るように、我々もまた隣人と共に在って預言は、救いは実現する。
インマヌエルというこの一語にその信仰を刻んで共に歩んで参りましょう。

孫 裕久

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