主の道を整えよ

マタイ 3:1-12

これは預言者イザヤによってこう言われている人である。

「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(3.3)

バプテスマのヨハネは主の道を備える者であった。主の道を備えるとは教会の使命でもある。では主の道を備えるとは如何なることか?それは如何なる道で、その道を何が通るのか?
マタイが引用したイザヤ40章の原文は以下の通りである。

「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らになり、狭い道は広い谷となれ。」

マタイがこれを「その道筋をまっすぐにせよ」と要約した通り、歪んだ道を歩きやすい道(言い換えるなら分かり易い道)にすることが道を備えることである。そしてその道を正義が通っていく。(12.18,12.20)
正義とは手垢のついた言葉で安易に用いにくい。誰もが自分の正義を語る。自分の正義を正義として通すために道は歪められ複雑になっている。(23.23)
教会の備える道は、主の正義が通る道である。それは疲れた者、重荷を負う者が歩きやすい道である。
関田牧師は「愛と正義は車の両輪である」と言われた。愛なき正義は道を歪めていく。浅野順一牧師はこれ加えて「軸なくして両輪は回らない、愛と正義の両輪を繋ぐ軸、それは真実である」と言われた。愛と正義は真実の上に生息する。
しかし敢えて私は申し上げたい。やはり正義は語るべからず。私たちが成すべきことは正義が通る道を備えることではないか。如何にしてその道は備えられるのか?それは愛と真実によって歩んだ足跡に。

孫 裕久

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