導かれるままに

マタイ 2:1-12

イエスは生まれて後、ヘロデに命を狙われ、その難を逃れるためにエジプトを経てナザレに移住した。この一連の出来事はメシア誕生の証人となった学者らの訪問に起因する。マタイはこの学者らが何者であるか、又その後について深い感心を示していない。彼らは神の救いのご計画の一コマに用いられたエキストラに過ぎない。それは誰でも良かった。しかし誰かが必要であった。
聖書は神の救済の歴史(救済史)を物語る書物である。神は人間を救済する。その救済に欠かせぬもの、それもまた人間である。神は人間を用いて人間を救済する。キリスト者とはこの神の救済史に参加する者である。そこに参加資格はない。むしろいと小さきもがそれに相応しい。
メシア誕生の証人が誰であるか?それは救済史の本質ではない。誰でも良いのであるが、それを演じる誰かがなくてはならない。ニーチェは本質というものを鉱泉の効用に例えている。鉱泉の価値を知らぬ人は、その水の量や豊かさに捉われる。人間として生を受け夢や希望を抱くことは真に良い。しかしキリスト者の本質とは何か?それは一人の人間として追い求める夢や希望たちの中心に神の救済史に参加する己が在る否か。たとえ全ての夢や希望が潰えてもキリスト者はその本質を失うことはない。
キリスト者として神の救済史に参加しよう。そこに参加資格はない。救済史の主役は神である。輝くべきは主役であって私たちではない。しかしその参加者なしに救済史は実現しないのである。

平和を実現するものは幸いである。彼らは神の子と呼ばれる。

孫 裕久

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