神を守る民

マタイ 2:13-23

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに とどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(2.13)

神は絶対者であり、創造主であり、万軍の主であり、救い主である。しかし今そこには、幼子であり自ら何一つ出来ず、人間の助けを必要とせねばならぬ救い主なる神が居る。
それはまだ救い主として覚醒前だから、ともいえる。しかしそれは冒頭の「神は絶対者である」との前提を崩さないための都合の良い解釈に過ぎない。
誤解を恐れずにいえば、私たちの信じる神は、ご自身では何もお出来にならない方なのかも知れない。ただ救済史に参加する人があって、その人を神は用いて下さるのだ。今ここに守らねばならない命があってヨセフと幼子の母はその為に用いられている。
しかし神ご自身は何もお出来にならないと言ったが、主イエスは少なくとも2つのことはお出来なった。それは能力的には誰にでも出来ることであるが、しかし人間には出来ないことである。それは罪人(この場合人々から嫌われている者)の友になった事。そして、全くの非暴力で十字架の道を歩まれたことである。そこにはインマヌエルの神が啓示されている。善人が見捨てたその罪人と共に生き、その罪人の為に命を捧げた。これが「神は我らと共におられる」の内実である。
私たちは主イエス・キリストの名によって祈り、その祈りを生きる民である。インマヌエルの神が共にいて我らを用いて下さることを信じて。

孫 裕久

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