宣べ伝えること、癒やすこと

マタイ 4:23-25

大勢の群衆が来てイエスに従った。(4.25)
何故なのか。それは、イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え病気や悪霊に苦しむ者を癒やされたからである。
律法学者は律法の教育を専門とし、ファリサイ派はその律法の実践に重きをおいた。両者に確執があったかどうかは分かりかねるが、教団内においていわゆる福音派、社会派なる対立が続いて久しい。そして教団の教勢は衰退の一途をたどり極めて近い将来に財政が成り立たなくなる事が明らかになっている。
異なる意見を突き合わせて議論することは望ましい。しかし政治的に一方を排除するのはキリスト教の方法論ではない。
イエスの宣教概要から見て、福音のみ言葉を宣べ伝える事、社会の中で隣人に仕えること事は互いに排除することではなく、むしろ互いに支持するものであることが分かる。
宣べ伝える事とは、その言葉を生きることであり、生きた結果が、また言葉となる。そしてその言葉がまた愛の実践となり、そこからまた新たな言葉が生まれる。この連続性に宣教は生き生きと前進し、大勢の群衆が来てイエスに従った。
今ひとつ言えることは、バプテスマのヨハネはヨルダン川で悔い改めるものを待っていた。しかしイエスは自ら出向いていったのである。
教会は外に出て語り且つ奉仕する。それが教会の宣教というものではないだろうか。

孫 裕久

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