愛を生きる (1)

愛には様々な側面があって一言で論ずることは難しい。
主イエスの愛は隣人に制限を設けない愛である。今、出会ったあなたが罪人であろうと敵であろうと主イエスは友になっていかれる。ただ私が思うにはそこには一つの条件ではなく法則のようなものがあると思う。それはその人が孤独であったり嫌われ者であったり皆の記憶から忘れられている者であったり。そういう人を主イエスはお訪ねになる。たとえそれが罪人でも敵でも悪人でも。言い換えるなら徴税人ザーカイのような、ふつう人が愛そうとは思わない人を主イエスはお訪ねになって友となる。そこには何が正義で何が善であるかという物差しはない。主イエスは彼らの友となられる。主イエスの愛は友になっていく愛である。
99匹を放置して迷い出た1匹を探しに行くのは間違っている。しかし今間違っていると言ったのは何処に立って間違っていると言ったのか。我々はそこを無前提に論じ又当然としていることが如何に多いことか。99匹を放置して迷い出た1匹を探しに行くのは是か非か?愛はそのような是非を問う土俵の上に生息しない。迷い出たのは1匹の責任であり、嫌われているのはその人自身が招いた結果である。しかし愛は迷い出たというその一点に集中する。たとえご自身が罪人の一人に数えられようとも、十字架で処刑されようとも。
誰かの友になることは出来る。しかし人々が友になろうとは思わない、むしろなりたくないと思っている者の友になっていく所に愛がある。友なき者の友となる。神は愛である。【つづく】

孫  裕久

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