地の塩、世の光

マタイ5:13-16

地の塩、世の光とは、この社会にあって無くてはならい存在をたとえている。しかし同時にそれぞれが全く逆の意味を兼ね備えている
料理で塩は欠かせない調味料である。しかし塩味が強過ぎると食事が台無しになる。あくまで塩は素材の味を引き出す陰の役者に過ぎない。ファリサイ派は日常で律法の実践を重んじた。しかしそれにしても彼らは目立ち過ぎたのである。
一方、荒野で律法を学び戒律と清浄を守った集団があった。行為として評価できても社会と断絶しては、ともし火をともして枡の下に置くようなものである。(5.15)
此方は目立ち過ぎ、あちらは隠れている。全く異なるこの両者ではあるが隣人不在という点で共通点している。即ち自分の救いだけがテーマであってその為に目立ち、又隠れている。
故に主イエスは、時に地の塩であり、時に世の光であれと言われる。目立ち過ぎず、しかし隠れてはならないと。このさじ加減が非常に難しい。しかし隣人の視点から見ればいたって簡単である。時に隠れて隣人を活かす塩となり、時に現れて隣人の歩む足元を照らせば良い。
収穫感謝は収穫を分かち合うことで感謝を表している。その根拠は申命記26章にある。イスラエルの民は収穫を祝う祭儀で神に救われた歴史を告白し、収穫はその救いによって神から授かった賜物であることを確認した。そしてレビ人・寄留者とその収穫、即ち賜物を共に分かち合ったのだ。
飢餓・貧困問題の解決策として富める者が貧しい者に分配するのは間違っていない。しかしそれは富者が貧者に恵むことである。収穫感謝は恵むことではない。それは私物ではなく神から授かった賜物であることが共に分かち合う我々の根拠なのだ。
故に如何にも「分かち合っています」と目立つ必要はない。さりとて隠れて分かち合う事もない。恩を着せる事ないよう隠れて献げましょう。しかし時には世界の人々が連帯できるようにそれをハッキリと示していきましょう。地の塩、世の光として。

孫 裕久

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