愛を生きる(2)

主イエスの愛は、隣人に制限なく友になっていく愛であった。一方使徒パウロの愛は共同体がその主イエスによって一つになる為の愛であった。そしてこの愛は忍耐であった。
主イエスはユダヤ教内で罪人の問題を背景にしていたが、パウロの場合は教会を背景にしており、そこには民族、性別、身分の違いがあった。教会は、ユダヤ教が違いを分離していた垣根を取り除いた。それ自体は肯定すべきことであるが、しかし分離によって守られていた違いの摩擦が表出したのだ。
パウロはこの問題を「体は、一つの部分ではなく、多くの部分からなっています。」(コリントⅠ12.14)として互いに違いを認め合うように勧めた。しかし違いを認め合うとは容易ではない。そこには互いに自己を相対化する努力が求められる。これは個人の問題ではなく教会という共同体内の問題で、その構成員一人一人が一つになる為の問題である。一つになるとは皆が同じになるという意味ではなく互いを尊重することであり、見方を変えれば譲歩することである。故に忍耐を必要とする。
人は社会生活で相手を尊重し自分が譲歩することを知っている。しかしそこにも限界があり思想信条や文化等、譲歩できないものが如何に多いことか。忍耐にも限度があるのだ。
主イエスが隣人に制限を設けなかった事に対して、パウロの場合は共同体が一つになるために違いに制限を設けなかったといえる。そしてそれを可能にする賜物が愛であった。パウロは主イエスの故にすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えた。(コリント113.7)このすべてこそが違いに制限を設けないという意味である。
「神は絶対である」とはその他は須らく相対化されるということである。共同体が一致を目指す時、常に自己相対が求められる。時には許容を超えてしまう時もある。しかしキリスト者はそこでパウロの愛を思い出したい。忍び耐える中には、信じ望むという言葉が含まれている。パウロの愛、即ち忍耐は単なる我慢ではない。それは信じ望むものである。その信仰と希望を内包する忍耐なる愛であることを常に忘れず、一致を目指して参りましょう。愛によって。

孫 裕久

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