神が共におられる幸い

マタイ福音書5.1-12

主イエスの山上の説教は「幸い」からはじまる。しかしこれはいわゆる幸福論ではない。何故それを幸いといえるのか?机上でその意味を考え、幸いといえる解釈を見出し説明することに大した意味はない。否、説明できてしまったら嘘かも知れない。
二十歳の時、国籍を理由に失恋した私は最後の晩餐のつもりで次兄の店を訪ねた。私は兄に事の次第を話して死にたいと言った。しかし兄は、私と視線を合わせることも無く淡々と寿司を握りながら「アホやな、そんなんで死んでたら俺は何回死ななあかんね」と笑った。
私は慰めの言葉が欲しかった。如何に関西とはいえ、そこは笑いを取りに行く場面ではなかった。しかし確かに笑う場面ではないが、それを朝鮮人の血を分けた兄弟の口から聞いた時、不思議な平安とそれでも生きて行こうという言葉では表現し難い不思議な励ましを感じた。
国籍を理由に躓くことは色々あったが意外と兄弟でそれらを共有することは一度もなかった。兄弟5人、物心ついた時からみな「それはしょうがないんだ」と納得して生きていた。短い会話ではあったが互いに秘めた辛い躓きをはじめて兄弟で共有しそれを笑いに落とされた瞬間、笑う場面ではないのだが不思議と私も一緒に笑った。そして生きていこうと思った。
主イエスがどう考えても幸いとは思えない事を「幸いだ」という時、そこには貧しさや悲しさ、飢えや迫害というものを共有する者同士において然りとなる幸いが、そこにあるように思うのだ。そして「幸いだ」というその言葉がその苦難や悲しみの只中で「インマヌエル、希望を持って生きていこうじゃないか」という励ましとなり、本当は幸いじゃないんだけど不思議とそこにその瞬間、そこに居た彼らにしか味わえない幸いが確かに在ったと思うのだ。
かなり強引且つ曖昧な結論になるが、川崎戸手教会は「こういう幸い」の在る、味わえる教会でありたい。

孫 裕久

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