そこに愛はあるのか

マタイ5:17-26

モーセの十戒は第6〜10で日常の犯罪を禁止している。その第一が「汝殺すなかれ」(出エジプト20.13)である。
律法は殺人を裁くが殺意を裁くことは出来ない。しかしイエスは殺意から程遠い兄弟に腹を立てるだけで裁かれると戒めている。腹を立てるとは心の問題であるがイエスは心の中までも完全であることを要求しているのではない。心(悪意)と異なる行い(善行)の評価を問うている。そのような評価など所詮天の国で大小を比べる程度のものであって決定的なものではない。
大切なのは自分の救いのみに執着する者たちの義に勝っているか否かである。自分の救いのみに執着する者たちは律法違反しなければ良いと思ったり、善行に隣人を利用したりする。主イエスが要求する彼らに勝る義とは、隣人の救いと隣人との和解を求める時に発動される愛である。
主イエスは祭壇に和解の供え物を捧げる前に、兄弟との和解を勧める。喧嘩両成敗というが誰もが誰も相手が自分より悪いと思っている。故に自ら和解の手を差し出すのが互いに難しい。愛とは優しさや慈しみと言えるがそれは結果として形になったものに過ぎない。愛とは怒りや敵意、憎しみ、それらに勝る力である。まさに順序から言えば相手が先に和解を申し出てくる所(だと思っている)を自分から和解の手を差し出す力である。愛とはそういう力なのだ
我々は弱さを否定しない。パウロが云うように弱さを誇りましょう。しかし自身に内在するこの敵意たちと戦えるのはこの世で己自身しかなく、これに勝利することにおいては強くあらねばならない。律法学者やファリサイ派の人々に勝る義がなくてはならいのである
順序からいえば神に赦しを乞うために律法を遵守するユダヤ人の信仰は正しい。しかし神は愛である。神自ら私たちに和解の手を差し出して下さり、自ら和解の犠牲となって下さった。ここに愛がある。このような愛がこの世にあると信じているのがキリスト者であるといって良い。そしてこの愛が「まず行って兄弟と仲直り」をし、「汝、殺すなかれ」という律法は完成するのだ。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です