マタイ5:38-42
あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかしわたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5.38-39)
「目には目を、歯には歯を」とは被害者の権利を保証したものであって積極的に復讐をすすめるものではない。また同時に受けた被害以上の復讐を禁じることでその拡大を抑止している。これに対してイエスは復讐そのものを否定している。
しかし「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という戒めは理解に苦しむ。これを単に復讐の否定、暴力の否定と解釈すれば安心なのだが、おそらくイエスは言葉通りの事を命じていると思われる。
弱者を保護するのが律法の精神であるが、弱者はただ保護されるだけの存在ではない。弱者こそが平和を作り出す主体を担っている。
パウロ・フレイレはその著書「被抑圧者の教育学」で抑圧者と被抑圧者を地主と小作人にたとえている。そして小作人が解放されるとは地主になることではなく、それは単に被抑圧者が抑圧者になることに過ぎず根本的な問題解決になっていないと指摘している。社会的抑圧状況を根本的に改革し得るのは善良な力ある者の力ではなく、被抑圧状況に置かれている者たちがその立場からなされる抵抗によって抑圧者を変え社会を変革していくのだとしている。それはガンジーやキングの非暴力・不服従運動によって証明されている通り、被抑圧者こそが平和を実現するキーマンなのだ。
「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とは弱者のなせる抵抗である。イエスは復讐の権利を行使するのではなく、自分の頬を打つものと平和な関係を創り出すよう弱者を戒めている。なぜならそれが出来るのは頬を打たれたが側にあるからだ。
孫 裕久