強者への戒め

マタイ5:27-32

出エジプトの民は解放されシナイ山で律法を授かった。これは力の支配から律法の支配の支配へ変わったといえる。即ち、力が弱者を支配する世界から律法が弱者を力から保護する世界へと変わった。律法とは本来、弱者の為の律法である。
しかし力はその律法さえも支配する。本来、姦淫を犯した場合、男も女も等しく裁きを受ける。しかし姦淫は次第に夫に都合よく解釈され専ら妻を裁くために機能した。離婚も女性を保護するものであったが、その権利は夫だけが持ち、実質夫は好き勝手に離縁状を渡すことが出来た。
イエスはこれまで夫に都合よく、そして妻を苦しめてきた姦淫と離婚の律法で夫を戒めている。本テキストの厳しい戒めは、夫即ち強者に向けられている。

みだらな思いで他人の妻を見たものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(5.28)
不法な結婚でもないのに妻を離縁するものはだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。(5.32)

強者の律法乱用は自己中心的で律法本来の弱者保護の視点を欠いている。自分が裁かれない事だけを追求するなら「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」とイエスは戒める。
律法は廃棄すべきか守るべきか。それともある程度は守るべきか。であるならある程度とはどこまでか。昔も今もこれからも教会はこの問いから逃れられない。聖歌隊は受洗者で構成されるべきか?未受洗者も良いと答えた瞬間、では未受洗者も聖餐に預かって良いかと問われる。これに否と答えた瞬間、前者と後者の違いの説明を求められる。教会は常にその律法に対する態度を問われ続ける。しかしその道のりで時に立ち止まり、律法は弱き者を救うため、弁護するために授けられたことを確認して参りましょう。

 

孫裕久

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