然りを然り

マタイ5:33-37

わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。私は主である。(レビ記19.12)

この律法は十戒(出20.7)の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」に基づいている。
そこでユダヤ人は神の名以外の天や地等を指して誓い、その罰を回避していた。イエスはそのような有様に一切誓いを立てるなと命じている。
そもそも誓いが必要なのは普段の言葉が信用を失っているからである。言葉と心に分離が生じて言葉通り受け取れない、時には受け取ってはいけない社会がある。そこに人間関係の複雑さがある。そしてその複雑さが律法を形骸化しているともいえる。
この世においてこれはある意味仕方ないことである。しかし週の初め教会ではその複雑さから解放されたいものである。心に思うことを言葉にできる関係でありたい。然りを然り、否を否とするシンプルな関係。
しかしそれは波風のものとである。私たちは波風を避けるために言葉を選び、選んだ言葉は心と分離する。故にその言葉の真実を問う誓いが時に要求されるのだ。私は教会に波風があって良いと思う。言葉を選んで波風を立てない関係を教会にまで持ち込む必要はない。然りを然り、否を否。確かにそれによって波風が立つでしょう。しかしその吹き荒れる波風を聖霊の息吹に変えられることを信じて参りましょう。

孫 裕久

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