神の国と神の義

マタイ 6:25-34

キリスト者が知りたいのは神のみ心である。それを神の国、神の義と言ってよい。しかし、もしそれが公に明らかになったとしても貧困・差別・戦争は無くならない。神の国、神の義を求めよとは、私の国、私の義を捨てることを要求している。
人が不機嫌になる大半は、自分の思い通りにならない時である。人は無意識に自分の思い通りになる王国を欲している。私の義を求めるとは、義そのものではなく、私を認めさすことの追求である。この時、義は私を認めさす道具に過ぎない。神の国と神の義を求めるとは、以上の放棄を要求している。各自が私の国、私の義を放棄した時、諸問題は解決に向かって舵を切る。
では如何にして私の国と私の義を捨てることが出来るのか。私たちは今尚地上の富と所有に囚われている。故に思い悩みは絶えず、それを解消せんと私の国と私の義は更にその版図を広げようとしている。
そんな私たちに主イエスは「あなたがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」(マタイ5.8-9)と主の祈りを与えて下さった。日々、この主の祈りを生きて参りましょう。主の祈りを生きることが私の国と私の義を捨てることであり、主の祈りを生きるその道のりに、キリスト者が欲してやまないあの神のみ心が鏤(ちりば)められているのでありましょう。

孫 裕久

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