この度、昨年亡くなった義母の一周忌に訪韓することになった。振り返れば私が初めて韓国へ渡ったのは1993年、丁度30年前の事である。当時私は神学生でその学びに行き詰まっていた。具体的にはアイデンティティーというものが揺り動かされていた。それ以前の私の信仰にそのようなものは不要だった。というより考えなくて済ましてくれるもの、今にして思えばそれが当時の信仰であった。
朝鮮人として日本に生まれる事は単に外国生まれの二世という説明だけでは不十分な複雑な事情を抱えている。しかし聖書に親しんだ人には、バビロン捕囚の子孫のようなものという説明で十分かもしれない。それは負の歴史であってその出自は日常で目立たぬように覆われていた。国というものに帰属できない在日らはいつも不安定*1で、その不安定さが何処かに帰属する事を求め、見方を変えれば常に同化という引力の影響下に置かれた。帰化はその一つであるが、教会も同類といえる。そこはユダヤ人もギリシャ人もなく、日本人も朝鮮人もない。そこには民族を超えたファミリーがあるようにも見え、またそう自分で描きたかったのかも知れない。教会は私を朝鮮人ではなくみんなと同じキリスト者として迎えてくれた。
しかし多摩川河川敷の街とそこに暮らす人々、そしてそこに建てられた川崎戸手伝道所は、日本に生きる朝鮮人が目立たぬように覆い隠していた諸問題と向き合うことを余儀なくし、且つそれまでユダヤ人もギリシャ人もないといって考えずに済ましてくれた聖書自身からその答え*2の匂いが漂ってくることに、私は戸惑い行き詰まっていたのだと思う。そしてその行き詰まりの過程で祖国という概念が登場し、こいつの正体をハッキリさせないと前に進むことが出来ないと感じた。
未だ行ったことのない国、しかし私の国籍はそこにあって、その国籍であるが故に悩まされている私にとっての祖国とは何なのか?祖国というものから自由になるために、否祖国なるものと縁を切ろうとしたのが30年前の旅であった。(つづく)
*1 この不安定とは一般論ではなく、自分が立つ足元が舗装されたアスファルトではなく、凸凹の荒れ地という意味での不安定であって、それは直立歩行できる人は気づかないが、車椅子で移動する人にとって障壁であるような状態に例えることが出来る。
*2 聖書に登場する「寄留の民」と「在日」が重なり、そこに覆い隠さなくても良い手がかりのようなものを感じ取った。
孫 裕久