マタイ27:1-14
ユダはイエスを裏切りました。しかし何処から何処までが裏切りと言えるのか?という問いを立てるなら、果たして裏切り者はユダだけといえるのでしょうか。しかし福音書は例外なく裏切り者としてユダだけを名指ししています。何故ユダはイエスを裏切ったのでしょうか?マルコはそれを沈黙しています。しかたなくルカとヨハネはサタンの企てとしました。その背後にはイエスの十字架と復活による救いは裏切り者ユダにも妥当するのかという問いに迫られたものでした。マタイは金銭目当てとしてユダの救いを例外的に否定しています。
何れにせよ弟子が主を裏切ったとする動かし難い史実に対して後のキリスト教会はその神学的回答に苦労したのです。しかしその苦労はユダにとって何の意味もありません。
奥田知志牧師はその著書『ユダよ、帰れ』の中で裏切りの理由ではなくユダの死を見つめています。奥田牧師にとってユダの死と向き合うことはホームレスと向き合うことでした。ユダは帰るべき場所を誤りました。銀貨を返金して裏切りの事実を消去しようとしたのです。
ホームとは居場所であり自分がそこに居れる関係があります。ユダの罪は消えません。しかしそれを赦してくれるイエス・キリストのおられる所が彼の帰るべきホームであって、ユダはそこで赦された罪人として行くのだと奥田牧師は語っています。
本当にそうだと思います。教会の教義を完成させるためにユダの裏切りの理由を机上で探索する事に意味はありません。我々の課題はユダが見失ったホームを備えユダを迎え入れる事であります。ユダ一人に裏切りの汚名を着せ都合の良い裏切りの理由を考えるのではなく、目の前にいる現代のユダと共に生きることに意味があり、それは同時にユダへの贖罪でもあると思います。
孫 裕久