十字架に架けられた神

マルコ15:21-32

イエスは十字架で辱めを受けました。メシアと期待されていた人が十字架に架けられているその姿を律法学者や祭司長があざ笑いました。しかしイエスをあざ笑う声は彼らだけのものではありません。それは十字架に架けられた「ユダヤ人の王」を見た人々の心の声であります。
そして今ひとりその辱めを、身を持って体験したのがキレネ人シモンでした。彼は通りすがりにイエスの十字架を無理に担がされました。十字架を担ぐシモンに注がれた視線は彼を処刑人の一人として数えたことでしょう。
迷いでた1匹の羊は99匹の視線に晒されます。もしかしたら迷いでたのは1匹の責任かも知れません。しかし例えそうであれ羊飼いは1匹を見捨てないのです。主は身を持って辱めを受けました。その十字架を担がされて主の後に従うものも恥ずかしい思いをしました。主とそれに従う者は迷いでた1匹の気持ちを知るものであり、その隣人となるのです。
パウロは「私は福音を恥としない」と言いました。当時、十字架に架けられた神を宣べ伝えることは常識的には恥ずかしいことだったのです。教会には十字架が掲げられています。十字架は罪人の処刑台です。そんなものを教会のてっぺんに掲げています。
教会は恥に晒された者の隣人となり、それを恥としません。十字架にはそんな意味も込められているのだと思います。

孫 裕久

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