主の働き手として

マタイ9:32-38

収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いないさい。(9.38)

収穫はそのタイミングが大切で、遅れると作物は傷んでしまいます。「収穫は多い」とは稼げるという意味ではなく「滅びゆく者が多い」ことを例えています。にも関わらず働き手が不足しているので収穫の主に働き手を求め、召し出されたのが教会です。
滅びゆく者とは誰のことなのか?イエスによればそれは隣人に値しない者として円外に放置された人々です。どのような事情で円外に放置されたのか、それは自業自得というべきものも含めてその経緯は問いません。というよりそれはまた別の問題で、注目すべきは今、円の外に放置されている「収穫」すなわち「滅びゆく者」がそこにいるという事実です。
その事実をどう見極めるのか。それは自業自得の罪人で、隣人という円の外にあるので、それを愛さないのは罪ではないと自己正当化を図るのか?その罪人の友となるのか?福音書は読者にそれを問うているのです。
口の利けない人が癒やされた事件を見て、イエスを悪霊の頭であると誹謗したファリサイ派の人々はその事実を認めることが出来ませんでした。それは同時に自己の否定に繋がるからです。すなわち自分は彼らを放置し、それは罪に値しないとしていた根拠が崩れてしまうからです。
一つの事実に対して、その事実の前に自己を相対化するか、自己を正当化するために事実を捻じ曲げるか。教会は「滅びゆく者」を救うために収穫の主に派遣された働き手です。これを常に心に刻んで歩んでまいりましょう。

孫裕久

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