働きの中にある真実

マタイ福音書11:2-19

「わたしにつまずかない人は幸いである」(11.7)
この「つまずき」は、自分の期待通りでなかった事が原因で信じられなくなったという意味で用いられています。何かに期待する者は、それが期待外れに終わった時つまずきます。
ヨハネはイエスに期待しました。それはメシアへの期待です。即ち、権力の横暴によって囚われた人を解放する期待です。つまずきとは期待の反動です。しかしその期待の正体はヨハネがイエスに思い描いたメシア像です。民衆もヨハネとイエスにメシアの期待をかけました。しかしヨハネもイエスも民衆の期待に応えませんでした。それにつまずく民衆の姿を子どもが一緒に遊んでくれないと駄々をこねる姿にイエスは喩えています(16-17)。
メシアは十字架に架けられました。言い換えるなら救い主が罪人として処刑されたのです。これほどのつまずきがあるでしょうか。しかしイエスは、「知恵の正しさは。その働きによって証明される」といわれました。(11.19)
「先ず期待がある」というのは人間的で理解できるものです。しかしその期待と神のみ心を混同してはなりません。「先ず神の国と義を求めよ」とは、「先ず自分の期待があるのではない」という戒めを含んでいます。ペトロの「そんなことがあってはなりません」(マタイ16.22)とは、神のみ心より自分の期待を優先させた言葉でした。すなわち「あなたは私が思い描くメシアであり続けてくれ」という期待です。しかし神のみ心は、その期待の中ではなく、その働きの中、十字架の中に、示されているのです。
それが誰であるか、誰であるから期待する、ではなく、その働きを直視しそこに啓示される神のみ心を信仰の目と耳と鼻で、見分け聞き分け嗅ぎ分けて参りましょう。

孫 裕久

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