失って得るもの

マタイ10:34-39

「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない」(10.37)

古来、宗教とは国家や民族単位で信仰され、ユダヤ人にとっては法律のようなものでした。そこに登場したキリスト教は個人宗教でした。ユダヤ人にとって異教徒との同居は経験なく、キリスト者は神と家族の狭間に置かれ厳しい選択を求められたのでした。
近年、日本でも家族単位の宗教があって、一部に信教の自由が保証されていな事実もあります。しかしキリスト教の場合、入信して家族と縁を切る決断は迫られません。クリスチャンホームという言葉は確かにありますがキリスト教はあくまでも個人の信仰なのです。そしてその信仰は信教の自由によって保証されています。しかしともすると、私たちの信仰はその保証の上に胡座をかいてしまっていないでしょうか。
ユダヤ人が家族と縁を切ってでも信じたイエス・キリストへの信仰には及びませんが、私たちも、キリスト者として、そこは譲れないという一線を自分なりに持ってこの日本社会で生きていきたいものです。しかしその譲れない一線によって私たちは何かを失います。ユダヤ人キリスト者は家族を失いました。堤防を越えた川崎戸手伝道所は信徒を失いました。それは物ではなく関係を失うのです。物を失うのは損失ですが、関係を失うのは恐怖です。既存の関係を守るために沈黙を守るか、いと小さきものの為に沈黙を破るか。信仰生活とはその緊張感の中に生命力を持っていると私は思います。
沈黙を破り何かを失うかも知れません。それは恐いことです。しかし主は約束されます。

「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(10.39)

孫裕久

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