わたしのもとに来なさい

マタイ11:25-30

多分、人は罪人として放置されるより、隣人のひとりとして受け入れられることを望んでいます。 また個人的に嫌われる事はあっても、仲間たちや帰属するグループから嫌われるのは避けたいものです。出来れば仲良く、可能であれば好感を得たいと思います。
その為に私たちは日常で、ある程度自分を控え、時には本意に反して同調することもあります。しかし、それも度が過ぎると疲れを覚えます。それはまるで痛い軛に繋がれて重い荷を引かされているようなものです。この社会には同性愛者や被差別部落出身者など本性を隠して隣人との円満な関係を得ている人々がいます。またそのようなマイノリティーに限らずとも誰もが同類の日常を生きている部分があるはずです。
本来律法とは弱者を救済するものですが、隣人のひとりに数えられ、そこに留まるための律法は、痛い軛につながれ、重い荷を引くようなもので、それは人を極度に疲れさせます。故にイエスは、疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい、 あなたを休ませてあげようと招いて下さいました。
しかし、そこには決して軛も荷もない訳ではありません。時には対立を生むし、時には水害にあうかもしれません。また時には差別されるかもしれないし、また時にはひとつの関係を失うかもしれません。
それでも此方の方が、以前の軛よりは負いやすく、荷もずいぶんと軽いのです。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です