憐れみ深い神

マタイ12:1-8

「わたしの求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ12.7)

レビ記4章に贖罪の献げものの規定があります。その概要は、自分の犯した罪に気づいたら祭祀のもとへ行き、規定の献げものをして規定の儀式を執り行なってもらえば罪が赦されるというものです。
即ち「いけにえ」とは自分の罪を赦してもらうための献げものです。いうなれば本来罪を犯した本人が裁かれるべき所、その身代わりとなる犠牲によって自分の罪は贖われ処罰を免れるという仕組みになっています。
これに対してイエスがいうところの憐れみとは、『誰か他の人が被っている何らかの害悪を目の前にして生じる心情、およびその心情から生まれる行為』を指しています。そしてその行為は律法の枠を超えていきました。汚れた者に触れ、罪人と飲み食いし、安息日律法に違反しました。イエスの隣人は律法の外に放置されており、故に彼らを救済する(罪から解放する)にはイエス自身が律法で保護された領域から出て行かざるを得なかったのです。すなわち罪人を救うために自ら罪人となったということで、慣れ親しんだ言葉に言い換えればこれが「自己犠牲愛」というものなのです。
すなわち「いけにえ」は雌山羊などに犠牲になってもらって自分が救われ(正当性が保たれ)、「憐れみ」は自分が罪を負って隣人を救うのです。故にそこに偽りなき愛があるのです。

孫 裕久

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