本当に大切なもの

マタイ12:9-14

大切な自分の羊が穴に落ちらた、それが安息日であろうと助けるのであるから、羊より大切な人間を助けるのは安息日に適っているという解釈は少々無理があります。しかし時として法は解釈しなければならい時があり、それが弱者を救済するためならそれは法の精神に適っていると言えます。
イエスが山上の説教で批判した偽善者は、祈りや断食など自分の評価を求めるもので、そこには隣人が欠落しています。
そもそも安息日律法とはバビロンへ連行された捕囚の民によって制定されました。捕囚の民は、安息日に稼ぐことをしませんでした。捕囚民ですから裕福ではないでしょう。しかし彼らは安息日に敢えて稼ぐことをしなかったのです。いうなれば空腹であっても、自分の腹を満たすためにその日は稼ぎませんでした。これが神殿礼拝を失った民がそれに代わって自分が何者であるかを確認する手段であり安息日律法の目的だったのです。
以上の経緯から安息日律法の本質を読み解くなら、安息日とは自分の為には用いない日なのです。その手を休めて人は神に心を向けるのです。そして気づかないでいた隣人に気づくのです。そしてその手を隣人を救済することに使うのは、むしろ安息日に適っているのです。
安息日とは6日間自分を養うために用いてきた手を休め、心を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する日なのです。
ユダヤ人は本当に安息日を大切にしました。しかし安息日を本当に大切にするとは、それを守って自分の義を立てるのではなく、助けを必要としている隣人のために用いてこそ、その精神に適うのです
週に一度は自分や家族のために用いてきた手を休めましょう。その手を休めた時、他にそれを用いる存在(隣人)に気づくことが出来るのです。

孫 裕久

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