ありのままを生きる

マタイ12.33-37

「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(12.36-37)

このように言われると、人は口を慎み、義とされる言葉を探求します。そして無口で、時々良いことを語るように努めます。しかし木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる(12.33b)ように、どれだけ格好良く見せかけた所で、悪い木に良い実は実らないのです。ここでイエスの言いたいポイントは「だから良い実を実らせる為に、良い木になれ」ではなく「所詮、君らは悪い人間なのだから、無理して良く見せかけようとするな(12.34)」という所にあります。換言すれば「ありのままを生きなさい」という事です。
人間は須く自分を正当化する砦の中を生きています。しかしそこではその正当化に相応しく見せかけなければなりません。さもないと罪人として砦から放り出されます。イエスはその砦の中が息苦しかったのでしょう。そこではありのままを生きることが出来なかったでしょう。だから脱出したのです。自ら罪人となることを選択したのです。ありのままを求めて。
ありのままとは生来備わっているものではありません。それは自己正当化という砦の外で出会い育まれていくものです。故に教会は砦の外に建てるべきなのです。そこでありのままを生きる事ができるように。
しかしありのままとは、それはそれで面倒なのです。ありのままは、見せかけによって得た平和を放棄せねばなりません。故にもめ事が絶えません。しかしそれは見せかける苦痛の軛よりは負いやすく、それに耐えていく荷よりは軽いはずです。人は一週間見せかけの砦に囚われています。そこで疲れ重荷を負う者に「いらっしゃい、休ませて上げましょう」といえる、そんな教会を共に形成して参りましょう。

孫 裕久

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