この人を見よ

マタイ12.38-42

「よこしまで、神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」(12.39)

詰まる所、福音書はイエスが神の子メシアであると証ししています。これはキリスト者にとってあまりに自明のことですが、意外とその意図するものを理解していないのかも知れません。しるしとはその契約を保証するものですが、イエスを信じる為にその保証(しるし)を求める信仰の態度がここで問題にされています。
実はあの十字架を負ったイエスこそが、神が人間に示されたしるしそのものなのです。そのイエスにしるしを求める信仰的態度とは、結局自分を正当化する砦から一歩も踏み出そうとせず、社会常識で理解可能な言語にイエスを言い換えて理解しているだけに過ぎません。それは例えば「イエスは弱者と共に歩まれた」という理解を通してイエスを信じるに足る者として承認しているようなものです。確かにその理解は間違っていないのかも知れませんが、その理解(しるし)とイエスを信じるというのは次元を異にします。
私は子どもの頃、とても怖がりでした。中学の時引っ越したのは和泉市の山奥で、帰り道の近道で木に囲まれた細い坂道がありました。途中には如何にもお化けが出てきそうな不気味な池までありました。昼間は問題なのですが、夜に歩く勇気はありませんでした。子ども心ながら、夜にその近道を歩けない自らの不信仰と真面目に格闘したものです。真に幼稚な信仰ではありますが、主が共にいて下さることを信じ、主の祈りを祈りながらおよそ100mを一気に駆け上がったものでした。
復活の主は生きておられます。私たちがイエスの歩まれた道に従うのは、イエス理解というしるしによるものではなく、イエスが主であり生きて共におられるという信仰によるものなのです。新しい一週間、主と共に歩んで参りましょう。

孫 裕久

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