マタイ12.43-45
「掃除して、整えられていた」(12.44)状態とは、善悪を分別した状態を比喩しています。しかしその善悪を用いる目的を明確に持たない者は、(即ち空き家とは)他人を裁き、自分を正当化するためにしかその善悪を用いることをしません。そしてその状態は善悪を知る以前よりも酷いというお話です。それは世界史の中に見るキリスト教会が犯した大罪たちを見れば明らかです。
イエスは「人を裁くな」(7.1)と教えました。しかしそれはイエスを主と受け入れた者にとって正しく機能する教えなのです。ただ知識として理解した者は結局、人を裁いている者を見て「人を裁くな」と裁いてしまいます。使徒パウロは律法ではなく、信仰によって義とされると説きました。しかしこれも同じく、イエスを主と受け入れなければ、人はその信仰の有無や深さ浅さを互いに比べてしまい、その内実は律法と何ら変わりません。
私たち人間はこの螺旋(らせん)から自力で抜け出す事は出来ないのです。聖書の教えはイエスを主と受け入れ、その下僕として生きる者にとって神の御心足り得るのです。
神の御心とは、社員が社長の考えを思案するような難しいものではありません。神は高い空の彼方ではなく、私たちの足元におられます。最も低い所で最後尾を歩く小さき者に寄り添っておられます。その方を我が主としてお使えする者にだけ、「人を裁くな」という教えは一切の解説を必要としない神の御心そのものなのです。
聖書を学ぶことは大切です。しかしその前にキリスト者は、日々、最も低い所におられる主イエスの下僕として歩むことを目指しましょう。その時、そこで聖書の御言葉はその下僕の道となり光となり命となるのです。
孫裕久