赦されて生きる

キリスト教は赦しの宗教です。しかし赦すというのは非常に難しい作業です。争っている者同士を見ていると「仲直りしなよ、赦して上げなよ」と思います。しかし当事者は怒っているのです。また傷ついているのです。赦すという作業は先ず、そのマイナスの感情を処理しなければなりません。「神に赦されたのだから、私も隣人を赦していく」という理屈は頭で理解し信じる事ができても、マイナスの感情に陥った時、その実践は困難を極めます。
他人に対して「仲直りしなよ」と簡単に言えても、いざ自分が当事者になった時は別物で、「それはそれ、これはこれ」と都合よく切り分けてしまうのが人間の罪深さです。
主君から1万タラントン(年収20万年分)の借金を赦された家来が、友人に貸した100デナリオン(月収4ヶ月分)の取り立てを強行しました(マタイ18:23-35)。借りたものは借りたもの、貸したものは貸したものなのです。この家来はキリスト者の実態を比喩しています。神にどれ程の罪を赦されながら、どれ程日常の些細なことを赦せないでいるのか。
私は今日も一日、どれ程自分に都合良く、それはそれ、これはこれと処理してしまったことでしょうか。人生61年生かされて、さすがに年収20万年分程ではないものの、到底7の70倍どころではすまないでしょう(マタイ18:21-22)。
赦しというのは頭の中で完結するものではありません。その先にある和解と平和こそが目的地であって、そこに至るプロセスにおいてどうしても赦しの手助けを必要とします。その赦しは「一旦腹に据える」とでも言い換えましょう。その赦しから始まり困難を乗り越え目的地に到達して、その赦しは完成されるのです。パウロが多用する「忍耐」とは、そういうことでありましょう。故にそこに希望があるのです。

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 (ローマ書5:3-4)

孫 裕久

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