優生保護法で隔離されたハンセン病患者を覚えて

人の命に優劣はないと本当に言い切れるのか?

時々子ども地味た事を考えます。例えば異星人に10人の人質を奪われ、1人はアインシュタインのような天才で9人は不治の病といわれていた頃のハンセン病患者だとしたら。異星人は人質解放に、1人の天才か9人の病人か、二者択一を迫ると、地球人はどちらを選択するのか?そういう問いを時々考える事があって、久しぶりに先週も考えてしまいました。

これは問いそのものが間違っているので答える必要はないし、答えを出したところでそこに何の意味もないのですが、自問自答すること自体は無意味ではないでしょう。

このような類の例題は種々ありますが、何を目的とするかによってその選択(正解)は変わります。今日、その目的は節操を失い「自分たちが最優先に満たされる為」を躊躇いもなく公言する輩が政治の中枢に居座っています。そしてその目的を満たす方を選択しそれを正当化しています。

イエスが追求したもの、それは人間とは何か?(神学的には「神との関係」)というところに行き着き、それは子ども地味た机上の例題ではなく、眼の前の隣人(罪人)の友になることを通じて彼はそれを追求しました。イエスにとって、城壁の外に放置された罪人(隔離された患者)は何者で、自分と如何なる関係にあるのか?「人間とは何なのか?」それを追求する上で、イエスは其処を避けて通れなかったのだと思います。

人間について、その身体や知的優劣、そして人数を判断材料としない。そういう判断を迫れ、その判断を出した瞬間、我々は人間であることを放棄するのだ。しかし現実的にそれを選択しなければならないのがこの世ですが、どちらかを選んだとしても、決してそれを正当化しない。それを選んだ自らの弱さと醜さを、歴史と自分の血と骨に刻んで行きていくのです。信仰の言葉で言い換えるなら、それが自分の十字架を背負うということであり、イエスにとってそれを背負うことが人間であることの証だったのでしょう。

孫 裕久

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