選挙戦、とりわけアメリカの大統領選は相手陣営の批判キャンペーンが目立ちます。自分が優勢な時は「米社会の不和と分断を修復する。米国の半分ではなく、全体のための大統領になる」と融和と一致を呼びかけていましたが、情勢が拮抗すると批判に転じました。勝つためには自己アピール以上に敵の落ち度を指摘し蹴落とすことによりエネルギーが割かれます。そして茶の間では意外とそういう話題の方が視聴率を得ているのではないでしょうか。人は人を裁き、また裁かれている姿を見るのが楽しいのです。
律法主義は、他人の落ち度を裁き自分は彼よりはましである事に満足し又周囲にそれを印象付けようとします。それは罪人を晒し者にし、それを強調することによって、さも自分は律法を遵守しているかのように見せかける姑息な手段です。イエスはこのような輩を偽善者といって非常に嫌いました。しかしそれがこの世なのです。故にイエスはそんな世の中を変えようとしたのではなく、晒し者となった罪人の友になりました。そこに寄り添うのがイエスの存在証明であり神の子である所以なのです。
一点の曇りなき人間などこの世にはいません。裁こうと思えば裁かれない人間もいないでしょう。教会は律法で善悪を裁くところではなく、この世から裁かれた者の居場所なのです。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7:1)
孫 裕久