「主の平和」とあるように、平和とは須らく「〜の平和」なのです。平和とはある状態を指しています。辞書には「戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。また、そのさま。」とあります。「ローマの平和」はローマの平和であって世の中の平和ではありません。真逆ではありますが主イエスが目指した平和も辞書で定義されている其れとは違うと思うのです。その根拠は、であるならばイエスが処刑される筈などないからです。戦争や紛争、更に飢餓や差別のない世の中を実現しようとする者を処刑する筈があるでしょうか。
主の平和は全てが平等でおだやかな状態ではなく、後の者が先になり、先の者が後になります(マタイ20:8~16)。したがってイエスを殺害したのは、先にいるのに後にされようとする者たちが、先であり続けるためにイエスを殺害したのです。
人間は先を目指し努力します。いちばんを欲張らないまでも最後尾の群れに落ちないように努力します。そしてその努力たちの結果が最後尾の群れを作り出しているのであって、これを悪という根拠はありません。
しかしイエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35b)と教えます。主の平和とは、入れ替わり立ち替わり、常に最後尾におかれた人々(即ちそれがイエスの隣人)に目が注がれ、その人々と共に歩むという状態ではないでしょうか。と、定義する事自体に何の意味もないのですが、しかし主イエスの目指した平和を実現するとは必ずしも全ての人々から称賛されることではないということを「平和を実現する人々は、幸いである。その人々は神の子と呼ばれる」というみ言葉にアーメンするキリスト者は常に肝に命じて置くべきでありましょう。
孫 裕久