2017年8月から始まったヨブ記の学びを終えました。途中新型コロナ感染拡大によって中断した時期もありましたが、実に7年の歳月を経ました。
ヨブは無垢な正しい人で、神をおそれ、悪を避けて生きていました(1.8)。しかしサタンは神に賭けを持ちかけ (1.9-11)、ヨブは試みを受けたのです。
「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」(1.9)
この賭けはサタンの勝ちと見るべきでしょう。ヨブは家族と財産を失い、痛々しい病に伏せ、やがて自分の出自を呪い、世の理不尽を語り、自分の無実を訴え、「何故」と神に抗議しました。
ヨブ記は何を言いたかったのか?読み終えてそれを端的に言葉することは難しいです。ただヨブの叫びは真に人間の叫びではなかったと思います。如何に無垢な正しい人でもそれは人間であって神ではありません。
「人間には限界がある」とは、あまりに多くを含んだ一語ですが、人間は弱く醜くい存在です。だからそこに胡座をかこうという訳ではありませんが、その人間の本質と向き合うことが限界の向こう側にいる神を信じることなのだと思うのです。
確かに限界を認めその範疇で上手に生きるという人生もあります。しかし神を信じて生きるとは如何なることか、我々信仰者はこの問いに真摯に向き合わねばならないのです。
ヨブ記を読むと色々と思い出されます。それは自分の弱さや醜さを認めることが出来なかった過去の自分です。言い換えるなら神と向き合っていなかった時の自分です。
ヨブ記は、我々信仰者を神に向き合わせようとする物語ではなかったでしょうか。そして限界の向こう側にある希望を照らす物語ではなかったでしょうか。
孫 裕久