沈黙の誓い

言葉は人を喜ばせたり力を与えたりもしますが、軽はずみな発言が相手の心に痛みを与えることもあります。人は言葉によって関係を築きますが、同時に言葉は刃にもなり得ます。

「沈黙の誓い」とは、修道士や信仰者が一定期間、または生涯にわたって言葉を発しないという誓約のことです。特に受難節の間は、主イエスの苦しみを黙想するために沈黙を守りました。
キリスト教の伝統では、沈黙は単なる無言の状態ではなく、深い霊的な実践として重んじられてきました。特にカトリック教会のカルトジオ修道会では「静寂の中に神がいる」と信じ、必要最低限の言葉しか発しないとのことです。
今、私たちは日々情報の洪水の中で生きています。絶え間ない言葉のやり取りの中で、本当に大切な言葉をどれだけ聞き分け、また発することができているでしょうか。沈黙は、ただ口を閉じることではなく、聞く耳を取り戻し、語るべき言葉を研ぎ澄まします。
主イエスも、沈黙を貫かれた場面がありました。裁判の席で人々が問い詰める中、何も語られませんでした(マタイ26:63)。その沈黙は、言葉以上に多くを伝えていました。時として、人は沈黙によってこそ、最も雄弁に語ることができるのかもしれません。
私は沈黙を恐れる人間です。沈黙に耐えられず、今自分が何かを話さなければという焦った使命感に囚われることがあります。受難節に入りましたが、少し「沈黙の誓い」を心に留めて過ごしてみようと思います。無駄なおしゃべりを控え、話す前に「この言葉は本当に必要か?」と自分に問いかけてみたいと思います。それは単に口数を減らすことではなく、沈黙の持つ意味を深く理解し、沈黙という在り方を自らのものとするために。

孫 裕久

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