何かを断つ

受難節(レント)の期間、キリスト者は「何かを断つ」という伝統的な習慣があります。食事や娯楽を控える人もいれば、悪しき習慣を見直す人もいるでしょう。しかし、そもそもその目的は何でしょうか?
人は日々、さまざまなものに依存しています。スマートフォンやSNS、喫煙や飲酒、仕事の忙しさに埋もれることなど、あまりにも当たり前になり過ぎていて、それが「依存」であることに気づいていないことが多いです。そしてそうした習慣の中で、私たちは本当に大切なものを見失いがちです。
当たり前のことですが、人は自分自身に関心を向けがちです。今日の仕事はうまくいったか、来週の予定はどうするか、何を食べ何を着るか。そうしている内に、周囲の人々への意識が次第に薄れ、家族や友人、同僚が抱えている悩みや痛みに気づかなくなってしまいます。受難節は、単なる禁欲の期間ではなく、こうした「無意識の依存」に気づくための時間です。
つまり神を信じて生きると告白しながら、現実はそれ以外のものに依存し頼って生きています。「何かを断つ」とは、それを手放すことで、神が本当に必要なものを与えてくださることに気づく機会なのです。
新聞の投稿欄に、SNSを控えたことで家族との会話が増えたり、贅沢な食事を断つことで困っている隣人に目を向ける余裕が生まれたといった記事が紹介されていました。キリスト者に限らず、人はこうした「何かを断つ」ことを通して「本当に必要なもの」が何なのかを見つめ直そうとしています。
主イエス・キリストは、ご自身の命を捧げるという究極の愛を示されました。神のようにはできなくても、私たちも心の中にあるわずかな余分なものを手放し、本当に大切なものを見極める努力をしたいものです。イースターまでの受難節「何かを断つ」ことで自分が無意識に依存しているものを見つめ、神が与えてくださる「本当に必要なもの」に気づくことができますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です