説得力

剣道を再開して一年半。再開当初に比べれば成長を感じ、周囲からも「上達しましたね」と声をかけられるようになった。しかし、高段者と比べると、やはり根本的に何かが欠けている。先生方からは「溜めが足りない、攻めが弱い、中心を取れていない」など様々な技術指導をいただく。確かに技術的にはその通りなのだが、いまひとつその正体を掴めないでいた。
指導者の一人、田畑先生は、私が四段を取るまでは細やかに助言してくださっていたが、それ以降は何故か沈黙を守っておられる。先週、稽古後の挨拶の際、「何か一言、言ってくれよ」と言わんばかりの眼差しを向けたところ、久しぶりにひと言くださった。
「良いんだけどね、孫さんの剣道には説得力がないんだよ。あたる時もある。でも、そこに説得力がないんだ。」
「説得力」この一言で、ずっとかかっていた霧が晴れたように思えた。
「良いんだけどね」は、「技そのものは」という意味であろう。しかしそこに説得力がない。たまたま技があたる時もある。しかし、打突の流れにおいて、技そのもの以上に、それが「必然」であったかが問われているのだ。
聖書を読むと、イエスの語る言葉にも、どこか同じような説得力を感じる。なぜなら、その言葉は、単なる主張ではなく、イエスの生き方そのものであり、その歩みが言葉となって人々に届いていたからだ。罪人を赦すイエスは、その罪人と共に食卓を囲んだ。その姿こそが、赦しの現実を示していた。イエスの言葉は行いであり、同時にイエスの行いは言葉であった。
つまり、説得力とは、その言葉や技がどれだけ立派であるかということではなく、それが全体の流れの中で「必然」として現れているかを問うている。剣道でも、信仰でも、人生でも、それが「起こるべくして起こった」と納得させるような流れ(STORY)があるとき、そこに説得力が宿るのではないか。
説得力のある剣道を身につけたい。
説得力のある信仰を持ちたい。
説得力のある人生を生きたいものである。

孫 裕久

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