カルメル山での預言者エリヤとバアルの預言者たちとの対決は、旧約聖書の預言を代表する事件です(列王記上18章)。 この物語の本質は、民に「あなたは何を信じて生きているのか」と自覚を迫るところにあります。彼らは口では主なる神を拝みながら、しかし、その内実は雨をもたらす豊穣の神バアルでした。エリヤの問いは、その無自覚を炙り出すものでした。「主が神であれば主に従い、バアルが神であればバアルに従え」と。
先週「信じて生きる命」と題して説教しましたが、信じることで命を得ようと願うものは、絶えず「自分は何を信じているのか」の確認が求められます。 信じて生きるとは、自分の中(欲)に神を置くことではなく、自己の外におられる神に仕えることです。 しかし油断すると、神を信じずる者は、いつしか自分の思いや都合を優先し且つ、その自分に気づくことなく、己の腹を神にしてしまいます。それは、自覚的に自分ファーストで生きる人間よりも、ある意味で厄介です。
だからこそ、信じて生きる者には、自分が何を信じているかを日々確かめる営みが欠かせません。
今日、この日本で私たちは、ウクライナやガザで日々失われていく命に心を痛め憤っています。けれども、私たちの関心が、そうした命の重みよりも、明日の米価や自分の暮らしに向いていることを、私たちは本当に否定できるでしょうか。
そこに、今日も預言者エリヤの声が聞こえてきます。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか」と。その問いの前に襟を正すとき、私たちは、復活のイエスと出会うのです。私たちは復活の主と出会い、自分は何を信じて生きているのかを、日々確認します。信じて生きるとは、その繰り返しの中に立ち続けることによって命を得るのです。