聖書を読めば一目瞭然、対立と分裂は原始キリスト教の時代からすでに存在し、今日も繰り返されています。パウロは、その解決策として「霊による一致」を説きました。
人は、共同体の一致に条件を持ち込みます。その象徴が律法であり、教団においては教憲教規に相当するでしょう。しかし皮肉なことに、一致のために持ち出された律法が、かえって対立と分裂の原因となっています。
そのとき律法は、多数派が少数派を排除あるいは同化させ、自己を正当化するための道具として用いられています。
霊とは何か。もはや私たちには分からないかもしれません。しかし、それを私たちの感覚でとらえ直すとするなら、「霊による一致」とは、対立の原因となっている律法に依存せず、それを悪用せず、自らを律法で正当化せず、つまり律法を手放して一致をめざすとき、私たちは霊と出会うのかもしれません。いや、霊に頼らざるをえなくなるのでしょう。
30年前、私は「内観」というプログラムに参加しました。唯一のルールは、他の参加者と一切会話をしないこと。全員初対面で、食事・掃除・作業を共にします。命令もルールも役割もなく、ただ協力しなければ1週間過ごせないという事実だけがありました。
社会で得た知識や能力はほとんど役に立たず、第六感のような「何か」に頼る日々でした。
パウロの言う「霊による一致」は、律法や倫理や信仰すらも超えて、ただ一致をめざすことに立脚するものかもしれません。
私たちの教会が、「ちょっと騒がしいけれど、なんて居心地のいい場所だろう」と思ってもらえる、そんな霊による共同体であることを願います。
孫 裕久