自由

孫 裕久

先週に続いて、YMCA留学生との対話の中で考えさせられた。彼らの多くは、日本を「自由な国」と評している。日常が安全で、夢を持って自分の進みたい道を歩むことができる。しかしそれは決してやりたい放題という意味ではない。例えば駅のホームでは整然と列がつくられ、互いに距離を保ちながら秩序が守られている。そうした、自由と規律が自然に共存している姿を見て、日本は自由な国だと高く評価しているのだ。
彼らの言葉を聞いていると、その背景も見えてくる。紛争や政治的な制約を抱える国から来た人にとって、「自由」は時に無秩序や危険と結びつく。だからこそ、日本で深夜に一人で歩けるということ自体が、驚きとして語られる。自由でありながら安全であるということは、決して当たり前ではないのだ。
しかし、そのような自由の中に生きている私たちは、その価値に気づきにくい。むしろ、不自由だという不満の声さえ聞こえてくる。自由とは絶対的なものではなく、他者との比較や、置かれた状況の中で初めて見えてくるものなのかもしれない。
そして今、日本は強い経済を求める中で、改憲などをめぐり、少しずつそのあり方を変えつつある。
留学生たちが見ていたあの「自由」は、単なる制度や権利ではなく、人と人とのあいだに育まれてきた信頼の上に成り立っていたものだった。しかし今、その土台よりも強さを優先するとき、私たちはすでに、その自由を少しずつ手放し始めているのではないか。そして、そのことに気づくのは、もはや後戻りできなくなったときかもしれない。

気づかぬは
自由なるゆえ
気づきしは
失いしあと
知るほかはなし

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