恐れを超えた先に

「死にはしない。片手一本くれてやれ。その代わり、相手の面を叩き切ればいい」
冒頭から物騒な言葉ですが、これは先週の稽古で、先生から受けた指導です。剣道は、背が高いほうが有利と思われがちです。確かにそういう一面がないわけではありません。しかし高い人にとって、低い相手の小手打ちは難敵です。そして、その小手を気にし始めると、思い切って面を打つことができません。小手への恐怖に迷う私に、先生は「片手ぐらいくれてやれ」と言われました。言い換えれば、「恐れるな」ということなのでしょう。
聖書には、「恐れるな」という言葉が何度も出てきます。しかし恐れとは、「こわい」という心理的、感情的な不安です。ですから、頭で理解したからといって、簡単に恐れなくなるものではありません。剣道でも同じです。頭では分かっていても、自分の小手に忍び寄る剣先に、身体が恐怖して自然に反応してしまいます。恐れるなと言われて、すぐに恐れなくなるわけではありません。しかし、その恐れを抱えたままでも、そこを超えていかなければ、次の景色が見えてこないのも事実です
信仰の歩みにおいても、避けて通れない一線があります。「そこは信じるしかない」という一歩です。しかし、その一歩には常に恐れがつきまといます。だからこそ主は、「恐れるな」と言われるのでしょう。
しかし、私は恐れています。恐れてはならないと頭では分かっています。それでも身体は、小手を守りながら面へ出ようとするように、どこかで疑い、どこかで身の安全を確保しながら歩んでいます。その未熟な信仰を、私は認めざるを得ません。恐れを取り払うことはできません。しかし、それを超えなければ、次の景色は見えてきません。そんな私に先生は言われました。
「死にはしない。片手一本くれてやれ」
剣の道も、信仰の歩みも、恐れが消えてから進むのではない。恐れを抱えたまま、それでも「恐れるな」と語りかける声に押し出されて、一歩を踏み出す。その一歩の先に、今まで見えなかった景色が開けていくのだと思います。

孫 裕久

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