信じる力
マタイ福音書9:18-31 登場する三つの治癒物語には共通点があります。それは癒やされたい側のイエスを信じる強い思いです。彼らはイエスであれば癒やしてもらえると一途に信じました。ここにはその信仰の質ではなく、ただ信じる一…
続きを読む →マタイ福音書9:18-31 登場する三つの治癒物語には共通点があります。それは癒やされたい側のイエスを信じる強い思いです。彼らはイエスであれば癒やしてもらえると一途に信じました。ここにはその信仰の質ではなく、ただ信じる一…
続きを読む →マタイ福音書9:14-17 「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(9.17) イエスは律法の円…
続きを読む →マタイ福音書9:9-13 新約聖書の中で常に論争になっているのは律法の問題です。律法は善と悪、隣人と敵、善人と罪人、この両者を分離します。これを図形的に表現すれば律法は円を描いており、円の中に善と隣人と善人、円の外に悪と…
続きを読む →マタイ福音書9:9-13 キリスト教の教義でその主要な位置を占めているのが罪の赦しです。神の子が犠牲の小羊となって人間の罪を贖って下さいました。これは神の恵みであって例えるなら借金を無条件で帳消しにして下さったようなもの…
続きを読む →マタイ福音書9:1-8 イエスの時代、重い病は罪を犯した神の裁きと考えられていました。故に病は祭祀が執り成しの祈りを捧げ、神から罪の赦しを得て治癒します。しかし現実的に病を治せるのは医者です。しかし罪の結果の病であるとす…
続きを読む →マタイ福音書8:28-34 悪霊はイエスを見て戦わずして白旗を上げました。そしてイエスの許可を得て人から豚の群に移り、豚は崖から湖に落ちて水死しました。この出来事を知った人々はイエスを見ると、その地方から出ていってもらい…
続きを読む →ヨハネ福音書20:24-29 聖書の釈義に行き詰まったとき、タイムマシンでイエスの時代に行き直接その現場を見たいと思った牧師は私だけではないと思います。直接それを見た者に勝るものはなく、そしてその者から聞いた証言が続きま…
続きを読む →マルコ15:21-32 イエスは十字架で辱めを受けました。メシアと期待されていた人が十字架に架けられているその姿を律法学者や祭司長があざ笑いました。しかしイエスをあざ笑う声は彼らだけのものではありません。それは十字架に架…
続きを読む →マタイ27:1-14 ユダはイエスを裏切りました。しかし何処から何処までが裏切りと言えるのか?という問いを立てるなら、果たして裏切り者はユダだけといえるのでしょうか。しかし福音書は例外なく裏切り者としてユダだけを名指しし…
続きを読む →マタイ8:18-27 イエスは律法に反して重い皮膚病の患者に触れ病を癒やされた。交際を許されていない異邦人も癒やされた。それが誰であれ主に救いを求めてくる者をイエスは招いた。それがイエスの隣人愛である。そして今やその隣人…
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