ある程度の不便

待降節に入り新会堂での歩みも一年を迎えようとしています。この一年を振り返るとやはり新型コロナウィルス感染の拡大と減少の繰り返しを見つめながら、この事態の終息を祈り求める日々でした。 全世界がウィルスに感染するという、まる…

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お手本

聖書の中で収穫は貧しい人々と分かち合って祝うように命じられている(申命記26:10-11)。これはかつて神がエジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出し乳と蜜の流れる土地を与えてくださった救済の歴史と関係している。即ち…

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対等であるために

日本キリスト教団は、11月第2主日からの一週間を障害者週間に定めています。これはNCCが1981年の「国際障害者年」をひかえた1979年3月に障害者週間を定め、NCC加盟団体である教団がこれに準ずる形で始まりました。 「…

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信じて生きる

マルコ福音書16:9-20 キリスト者にとって「信じる」とは最重要級の言葉である。しかしそれは自明とまでは言い難い。マルコによればキリスト者とはガリラヤで待つ復活のイエスを訪ね求めることであり、イエスの教えに換言すれば「…

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驚くことはない

マルコ福音書16:1-8 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架にかけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16:6) ひどく驚いている婦人たちに、イエスの復活…

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一欠片の勇気

マルコ福音書15:40-47 女たちはイエスの最期を見届けアリマタヤのヨセフはイエスの遺体を引き取り墓に納めた。男の弟子たちがみな逃げ去り、家族が遺体を引き取れなかった事実に照らして、それらは勇気ある行動であった。勇気と…

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辱めを受けた神

マルコ15:16-32 イエスは兵士たちに侮辱を受け、十字架では祭司長らに笑い者にされた。主は十字架で人間の罪のみならず恥も担われた。 キレネ人シモンはイエスの十字架を担がされた。その光景はまるでシモンが死刑囚にように見…

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見捨てられた神

マルコ15:1-15 祭司長らはイエスの殺害を計画したが(マルコ11:18)、暗殺はしなかった。彼らは敬虔なユダヤ教徒であり律法(汝殺すなかれ)を犯すことはなかった。強引ではあるが裁判という手続きを踏んでいる。律法は殺人…

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自分と出遭う場所

マルコ14:66-72 それは絶望的ともいえる。命を賭けた誓いが鶏の鳴き声とともに脆くも崩れ去った。ペトロは三度イエスを否んだ。ペトロの誓いは嘘ではない。しかし十字架の前では真理も正義も愛もその限界が明らかとなる。 律法…

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