満足

ヨハネ福音書のイエスは「私は・・・である」と語ります。

私は良い羊飼いである。私はまことのぶどうの木である。私は道であり、真理であり、命である。私は命のパンである。私はよみがえりであり命である。

ヨハネ福音書はイエスが何者であるか?に集中します。そしてその正体を知るとは観念ではなく、他者に仕える道を開きます。しかし弟子たちはそれを理解する事が出来ません。その原因を「主よ私たちに御父を示して下さい、そうすれば満足です」(14.8)という弟子の言葉で象徴しています。即ち、真理を求める一方で、自分の満足を得ようとする態度の間に生まれる矛盾が、それを分からなくさせているのだということです。

イエスは弟子の足を洗い、仕えること即ち自分を満足させる事ではなく、捧げる事を教えました。イエスは捧げることを説き、弟子は満足を得ようとしています。

自分を満たす態度は、対話を噛み合わなくさせ、目の前の存在に気付かなくさせてしまいます。命あるものはその命を守るために本能的に自らを満たそうとするので、その相対化は容易ではありません。

政府は「働き方改革」で、これまで事実上、青天井になっていた長時間労働に制限を設けようとしていますが、労使との調整が難航しています。私たちの生きる現実社会は競争社会です。競争に勝利して生き残らなばなりません。しかし一方で働き過ぎは労働者の健康を蝕みます。競争しなければならない(競争を止めることが出来ない)現実の中でその競争を抑制しようとする試みは必ず歪みや破綻をもたらすことでしょう。

本能的か、それとも法則というべきか生きるために自分を満足させる自分自身を何処かで相対化することなしには真理と呼べるようなものに接近することは困難です。

3.11から6年を経ましたが未だに多くの課題が積み残されています。それどころか自分を満足させる法則を自覚し、寧ろその正当性を主張しそこに開き直ったのがトランプ政権であり、日本(国民の意識)も似たような傾向にあります。

神は自らを捧げ、私たちに捧げることを説きました。ここに自らを満足させようとする己との対話を人間は要求されています。その要求に向き合うことなくして真理なるもの(神のみ心)を追求してもやはり「私は・・・である」と語りかけるイエスの言葉をいつまでも理解できません。

どうあがこうと人間である以上自分を満足させる所から自由になることは出来ません。ならばせめて困窮する人々の満足に自分が用いられる事で満足を得る人間になりたい。それを神に願い求める。主よ、心からそういう人間になれれば私は満足です。

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