罪を赦す権威(マルコ福音書2.1-12)

イエスは中風の患者に「あなたの罪は赦される」(2.5)と告げた。何故病人に対して罪の赦しを告げるのか。それは事故や不注意などではなく、原因が明らかでない重い病は本人が犯した罪の報い(神の罰)と考えられていた当時の律法理解に基づく。

前節で見た重い皮膚病の患者もその一例で、人々が彼らに近づかないのは医学的な感染防止のみならず、宗教的に罪人へ触れることによる汚れを避ける為であった。このような患者は病と罪の二重苦を負っており、本節のイエスの関心は罪の方にあった。

その場に居合わせた律法学者らは「神お一人のほかに、いったい誰が、罪を赦すことができるだろうか」と不快感を示した。これは神が罰したものであるから、それを赦すのも神であるとの理解である。しかしイエスはここでその理解を覆す。

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(2.10)とは、神のみに帰属する罪を赦す権威をイエスも特別に保持していると読むべきではない。イエスはそもそも中風の患者を前にしてこれが本人の罪に対する神の罰とは考えていない。彼らを罰したのは他ならぬ人なのだ。

それは緊急事態宣言が発令されたにも関わらず自粛せずに新型コロナウィルスに感染した人に集中砲火を浴びせる世論にも似ている。更に感染経路が分からないのではなく、それを明かすことの出来ない、いかがわしいさが背後にあるのだとゲスの勘ぐりをするハレンチさともいえるだろうか。人を罰しているのは神ではなく、やはり人なのだ。故に人は誰も罪を赦す権威を有する。言い換えるなら、人は人の罪を赦す務めをみな負っているのだ。人が人を罰したが故に蒔かれた種は、人が刈らねばならないのだ。

イエスは律法の枠を超えて、病苦に潜む今ひとつの罪の苦しみの存在とその原因に気づき始めた。しかしイエスが律法の枠の超えたのは机上の学びによるものではなかった。イエスに救いを求めて律法を犯した人がいた。同じく律法を犯してその人に触れたイエスがいた。その具体的な出会いとふれあいの中で、気づいたらイエスは律法を逸脱していたのだ。律法が嫌で律法から逃げ出したのではない。律法を批判するために律法を犯したのでもない。苦しむ人を救っていたら、気付けば律法を逸脱していました、というお話である。

そのような経過を経て、いよいよイエスは自覚的にこの世の罪と向き合い、積極的に罪人を招いていくのである。

孫 裕久

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