罪人を招く(マルコ2.13-17)

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。(2.15)

マルコ福音書においてはじめて「罪人」という言葉がここではじめて登場する。重い皮膚病の患者、中風の患者との出会いを通じて、イエスの関心は病の背後にある罪の問題へと移り始めた。

イエスは徴税所に務めるレビを弟子として招いた。ユダヤ人はローマ帝国への納税義務があり、その事務はユダヤ人の徴税人が担っていた。その仕事内容から、彼らは同胞から非国民的な扱いを受け罪人のひとりに数えられていた。

この日、多くの徴税人や罪人がイエスと同席していたのは、それが徴税人レビの家であった事と無関係ではない。「敷居が高い」とは、「気軽には行きにくい」などの意味で使われるがレビの家は彼らにとって敷居が低かった。

律法に照らして彼ら罪人と同席ししかも一緒に食事することなど考えられない振る舞いであった。同席していた律法学者らが疑問を抱いたのは当然である。これに対してイエスは次のように答えた。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(2.17)

残念ながらこれは良い例えではない。確かに医者を必要とするのは病人である。医者は病人の病を癒やす。しかしイエスが罪人を招くのは彼らを更生させるためではない。ここを履き違うと味噌も糞も一緒にしてしまうことになる。

イエスの関心はすでに罪にあった。しかしその罪とは律法の秩序を優先した結果として生産された罪と言って良い。(その病は彼が罪を犯した報いとして神によって打たれた罰であると定められた。)

レビらは律法によって罪人となり、律法の枠外に置かれている。彼らが再び律法のもとで生きるためにはその罪を精算しなければならない。イエスが罪人を招くのはその手助けをする為ではない。イエスが彼らを招くのは彼らと兄弟になるためであった。

イエスの教えは言葉が事実となる新しい教えである。「あなたの罪は赦された」という言葉は、彼と兄弟となり事実となるのである。

孫 裕久

 

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