何故マスクをするのか

【聖書箇所:マルコ福音書2.18-22】

宣教活動中、イエスは断食していなかったと思われる。その理由についてマルコの解説(2.19-20)は記されているが、本当の理由は私たちの想像力を働かせるしかない。

マタイ福音書(6.16)によれば、「断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする人」をイエスは偽善者とよんでいる。ここから推測できるのは断食する人は好評価を得ていた。しかしイエスはこれを嫌った。

律法の枠を超え、更に罪人と積極的に会食するようになったイエスの次なる課題は、律法違反している事実を自覚的にどのように総括するか?という問題であった。

川崎戸手伝道所は不法占拠したくて堤防を超えたのではない。戦責告白の実質化という宣教の営みが結果的に堤防を超えさせた。しかし現実問題として不法占拠するヨルダン寮で毎週礼拝を守ることを法律に照らして如何なものかという問いを無視することは出来なかった。誰から問われたわけではないが川崎戸手教会は自覚的に(この世的には)その違法行為についての神学的理由を明確しなければならなかったのである。関田牧師に言わせればそれは「この世の法よりも、キリスト者として神の法を第一義的とすべき」という聞き方を間違えれば少々危ない答えではあった。

今私が思うのは法律に照らせばヨルダン寮とそこで礼拝を守ることは間違いなく違法行為であった。しかしイエスが「新しい酒は新しい革袋に」という時、それはこの世の法ではなく神の法(新しい革袋)でという意味ではない。断食しないのは是か非かという捉えかたそのものを問題視している。(これは次のテキスト範囲になるが)、ようするにそもそも律法とは何なのか?という本質の違いを古い革袋と新し革袋で言い分けている。律法そのものを否定しているのではない。

断食しないのは是か非か?河川敷で礼拝するのは法律違反か否か?という捉え方、考え方、それ自体が古い革袋であり、今イエスが断食しないことをその古い革袋では評価できない(是非の問題ではない)。新しい革袋が必要なのだと言っている。その新しい革袋とは、律法に変わる他の何かではなく、律法に照らして是か非かという評価ではない新しいもの。その答は、そもそも律法とは何のために?誰のために?「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」(3.4)という問の中にイエスは新しい革袋を見出して行こうとしているのである。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です