マルコ5:1-20
異邦人の地でイエスが出会ったのは、墓場を住まいとする汚れた霊に取りつかれた人であった。私たちの状況に照らして言い換えるなら彼は街区に住む人ではなかった。人が住まない場所(中)で暮らす姿を街区(外)の視線を浴びながら生きる人の気持ちを私たちは理解できるだろうか。
彼はイエスに「かまわないでくれ」と壁を作った。河川敷の街で幾度この壁に遭遇したことか。外(街区)から見ればそこは「汚れた」街であり「汚れた」人が住んでいる。そしてそのように見られている事を彼らは知っている。関わりはその「汚れた」部分に切り込んでいく。ゆえに彼らは「かまわないでくれ」と拒否するのだ。
しかしイエスはあえてその壁を乗り越える。「かまわないでくれ」という要求に答えることは容易い。触れないことが良心ともいえる。しかし宣教の種蒔きはその壁を乗り越えねばならない時があるのだ。
確かにそこには無理が生じている。故に傷跡を残したり余計な問題を作る結果を招くこともある。しかし種蒔きは計算しつくされた営みではない。方程式のように常に唯一の答えを導き出せるものではないのだ。その壁を乗り越える無理が割り切れない余りを生み出していく。それが怖いなら壁の向こう側に行かなければ良い。
しかしそれを恐れてばかりいては種を蒔くことは出来ない。私たちが蒔いているのは成長する生きた種であって石ころではない。30倍60倍100倍の実りは、かまわないでくれの壁を乗り越えた所にあるのではないだろうか。
その壁を乗り越えていこう。しかし無傷ではすまない。そいうことを少し覚悟して小さな種を蒔き続けていきましょう。
孫 裕久