主により頼み

マルコ6:6b-13

信仰とはそれが生起する必然である。信仰者にとって信仰とは重要なテーマである。信仰者は自らの不信仰と向き合いながら信仰を深めようとする。しかし信仰とは頭で考えて得られるものではなく、又信仰というものを先ず獲得してからその道を歩み始めるというものでもない。信仰とはある種の必然である。遠足に行くことになって弁当が必要となるように。マラソンを走るために運動靴が必要となるように。信仰とはそれが必要となる時と場があるのだ。長血を患った女が癒やされたいと願ったあの状況が信仰の必要を要求したように。

信仰論について我々が重要視すべきは、信仰とは何であるかという以前の問題として、私は信仰を必要とする人生を歩んでいるか否かと言う問題に尽きるイエスが弟子たちに何も持たせなかったのはそれを必要とせねばならない状況に立たせたことに他ならない。言い換えるならイエスは弟子たちに唯一信仰を持たせたのである。

関田牧師が「この世の法以前に、キリスト者として神の法を第一義とすべきである」と言ったその言葉を普遍的に用いるのは危険である。しかしその言葉は法律の圏外、即ち法の加護を得られない(寧ろ法の裁きを受ける)河川敷で発せられた言葉であり、且つそこに生きる人々との和解と共生を目指して、この言葉は意味を獲得した。即ち無法地帯において神の法に頼らざるを得なかった。そういう所に身をおいて初めて我々は信仰の必要に迫られ、その迫られる中で信仰ついて考えそれを深めていくのである。

そういう意味でヨルダン寮は我々の信仰を十分に養ってくれたと言える。そして我々はこのヨルダン寮をあとにする。この経験を今後も大切に行きましょう。

孫  裕久

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