病人を床に乗せて

どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。(6.55)

イエスによる治癒物語を総括する内容であるが、注目すべきは病人自身がイエスのもとに来たのではなく床に乗せて連れて来られた点にある。読者は治癒物語を病が如何に癒されたのかに注目するが、その病人を床に乗せて運んできた人の存在を見落としている。イエスによる救いの完成に欠かせない第三の存在として病人を床に乗せて運んだ人を忘れてはならない。

神の国の実現がキリスト者の願いである。しかし神の国とは飢えも悲しみも苦しみもない楽園ではない。そんなものは待っていても永遠に訪れはしない。飢え悲しみ苦しみ、人間の生きるところにそれらは存在する。しかしそういう状況の中で誰かが床を担ぎ、担がれ共に助け合う関係性に神の国は臨在する。すなわち飢えも悲しみも苦しみもない楽園に限りなく接近する希望があるのだ。

教会は人を救うことはできないかも知れない。しかし救いを求める人を床に乗せてお運びすることは出来るかも知れない。

彼らは、病人の存在をしり、且つイエスの存在を聞きつけて、走り回り、床に乗せて、運ぶのである。

教会とはそういう存在であり集いなのだと思う。

孫 裕久

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