汚れないために

【マルコ福音書7:1〜23】

ユダヤ人が市場から戻って身を清めるのは、混雑の中で罪人や異邦人と接触した手で食事することによる汚れを回避するためであった。そもそもユダヤ教の律法は汚れの問題から出発している。エルサレム陥落後、国と神殿を失いバビロン捕囚となった民が異国の地でアイデンティティー(信仰)を守るために取った手段が律法であった。即ち彼らにとって汚れとはバビロニア人に同化する事であり、それは同時に奴隷の身分を認めることにつながった。捕囚の民はバビロニア人との違い(安息日、食物規定)を日々確認しながらアイデンティティーを構築していったといえる

しかしエルサムに帰還後、違いを確認する対象がバビロニア人から同胞のユダヤ人に変わり律法の本質に異変(律法主義)が生じた。即ち同胞同士で裁き合う事態が生じた。イエスの宣教はそういう事態の所産とも言えるが、その中心は裁きではなく許しにあった。

律法本来の役目は被抑圧下で同化に抗いながら民族アイデンティティを守り救済を待ち望むものであった。それが、自分と他者との違いは他者を裁く形に変質し、律法はその道具として用いられた。さらに自らの律法不作為は言い伝えによって自己正当化した。すなわち本来自らを戒めるはずの律法が他人に厳しく自分には甘かった。そこが手を洗わない弟子たちを裁くファリサイ派へのイエスの反論である。(1〜13節)

14節以下は、人の口に入るものが人を汚すのではなく人の心から出てくるものが人を汚すと結んでいる。この解釈で注意すべきは、力点は後者ではなく前者にある。後者(人の心から出てくるものが人を汚す)は前者を強調する役割を担っており主張の結論ではない。しかし全体としてイエスの言いたいことは「人を裁くな」ということであるが、これを言葉にしてしまうと結局人を裁くものを裁いてしまうのである。人を裁かないとは人を裁くものも裁かない所まで守備範囲にしている。「人から出てくるものこそ、人を汚す」(20節)とは、結局手を洗わなかった弟子たちが汚されているのではなく、それを裁いたファリサイ派の言葉が人を汚しているとイエスは指摘しているのである。
(続く)

孫 裕久

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