汚れないために(2)

マルコ福音書7:1−23

日本学術会議の任命拒否問題後、内閣支持率はその期待に反して上昇した。その理由は一連のGOTOキャンペーンへの評価が反映していると推測します。

冒頭の任命拒否問題は憲法違反の疑いがあり何より政治権力が学問の自由を侵害する深刻な問題である。が、ポイントで美味しいものを安く食べられるのだから内閣を支持するというのが今回の内閣支持率上昇が意味するところであろう。

確かに肉そのものが汚れている訳ではないし、日常を朝鮮語で過ごしている訳でもはない。しかし同化に抗いアイデンティティを守るために(象徴的に言い換えるなら汚れないために)捕囚の民は肉を拒み、朝鮮学校の生徒には朝鮮語を学ぶ自由がある。であるならば私は私である為にそのようなポイントで米粒一粒さえも口にしたくはない。そしてそうする自由を私は持っている。しかしだからと言って、ポイントで食べる人を裁いては駄目なのである。と言っては駄目なのである、と言っては駄目なのである、と言っては・・・・。

イエスは他人を裁き自己正当化する、そんな所業に汚れを見たのかも知れない。故にイエスは裁かない。罪人を赦し友となっていった。捕囚の民が、朝鮮学校が、無価値の烙印を押された全てのマイノリティーがそこに価値を再獲得するため自らに課したものがあったように、我々キリスト者は如何にしてアイデンティティーを確認しましょうか。

これより私は裁かない。例外なく人を裁かない。裁いている人をも裁かない。裁いてる訳ではないよと前置きしながら遠回しに裁くこともしない。無言の目で裁くこともしない。私が人を裁く時、その裁きで自らと人を汚すのである。その裁かないことをもって私は私がキリスト者であることをその瞬間瞬間に確認しよう。しかし私は結局心の中で人を裁いてしまうでしょう。そして心の中で人を裁く私を裁くことの出来る唯一のお方にそこはひとつイエス・キリストの十字架でお赦し下さいませと祈ることが許され、明日も又復活の希望に生かされていくのである。

孫 裕久

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