復活

ルカ福音書24.1-12

空虚な墓はイエスの復活を伝えているが、同時にイエスは此処にはおられないことを強調している。

キリスト者の日常は復活のイエスに出会い且つ復活を伝えて行く所にある。にも関わらず復活を説明するのは、理性では受け入れがたいこの事件を(先ず伝える前に)その理性が受け入れ可能なものに解釈してあげようとする試みなのである。それはまるで口に入らない生きた鶏をまな板の上で解体するようなものだ。しかし彼は焼き鳥を口にしてもそこから生きた鶏に辿り着くことはない。

「何故、生きておられる方を死者の中に探すのか。」(ルカ24.5b)

福音書記者は我々読者にイエスの復活を伝えている。同時に復活のイエスは最早聖書の中にはおられない事を伝えている。主は生きている。生きている方を聖書の中に探しても見つからない。我々はこの日常の中で復活のイエスに出会っていく。それは確かに目に見え、その声は耳に聞こえ、その身体は手で触れる事のできる生きたイエスである。我々はこの復活のイエスと出会い、今こそこの復活のイエスにお仕えし、この復活の事件を伝えていくのである。

確かに十字架までは説明や解釈は必要であった。しかし復活はそれを必要としない。復活を説明している内は復活のイエスに出会うことはない。何故なら復活のイエスはそこにはおられないから。空鏡な墓で復活を伝えるメッセージの中心はそこにある。

最早死の意味から生を求める必要はない。主は生きておられる。今我々は我々をここまで導いた聖書から離れ、日常(ガリラヤ)へと出ていこう。そこに生きた復活の主がおられるから。

ハレルヤ

孫 裕久

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