見捨てられた神

マルコ15:1-15

祭司長らはイエスの殺害を計画したが(マルコ11:18)、暗殺はしなかった。彼らは敬虔なユダヤ教徒であり律法(汝殺すなかれ)を犯すことはなかった。強引ではあるが裁判という手続きを踏んでいる。律法は殺人を裁けても殺意を裁くことは出来ない。しかし祭司長らが殺人を犯していないと言えるのだろうか。

大人はよく「私は、嘘は言っていない」という。嘘は相手を騙す。即ち「嘘は言っていない」とは上手に嘘をつかずに自己の正当性を担保しつつ相手を騙すハレンチな所業である。同じく暗殺した訳ではないがイエスを殺したのは明らかに彼らだ。彼らは律法が裁けない範囲でイエスを殺した。自己を正当化しながら殺人を犯した。即ち神を欺いて人殺しをしたのである。そこに罪がある。

更に彼らは群衆を扇動し死刑宣告をピラトに強いた。人はその弱さ故に声を出せない事はある。しかし大勢の声に紛れて無言で相乗りする者は、いざその時気配を隠して逃げていく。彼らは群衆とピラトの陰で気配を隠しその主体的責任から逃れた。そこにも罪がある

そんな罪たちがイエスを十字架に架け、その代わりに人殺しのバラバが救われた。ここに十字架の福音の秘義がある。人間の罪がイエスを十字架に架け、その十字架によって人間が救われる。机上では絶対に解けない方程式ではあるが、そこに真実がある。

我々が問題にしている真実は偽善をテーマにしている。隣人を自分のようにではなく、自分のために愛(EROS)している。聖書はそれを偽善と呼び、人間は須らくこの人屋から自力で脱出することは出来ない。神は愛(AGAPE)である。イエス・キリストの神は全てを捨てて人間を救う。故に真実なのだ、というより聖書はそれを真実と呼ぶ。

私の罪が神を十字架に架け、その十字架によって私は救われた。この真実を血と骨で理解する信仰を生きて参りましょう。

孫 裕久

1件のコメント

  1. 久しぶりに映画を観に行った。
    緊急事態宣言が解除されたからではない。
    たまたま、見たい作品の公開と重なっただけだ。

    作品は「マスカレードナイト」
    ではなく、
    「MINAMATA」
    ジョニーデップが社会派ドラマを演じた異色作である。
    しかし、私はタイトルに騙されたがこれは社会正義を訴えた単純なものではない。
    ある写真家を通して人間の悲しい性(さが)を描いていたものである(と私は思う)。

    カメラの向こうにあるのは、時に過酷な現実である。
    写真家はその前に立ち、その事実を記録するだけだ。
    決してカメラの向こう側に踏み出してはいけない。
    恐らく、そこに踏みとどまらせるのはエロス(自己満足)であろう。

    しかし、そうした彼の仕事により残された作品を通して、私たちが新しい明日を目指そうとするなら、そこにはきっとアガペーが訪れる(と私は信じたい)。

    それは私たち一人ひとりに掛かっている。
    もっとも、ここでウダウダ言っているだけでは、私もSNSで誹謗中傷している奴等と大差ないけれど・・・

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